10/23/09

季節感と遊びごころ

今日ふと秋の空を見上げて、昔家族で栗拾いに言ったときのことを思い出した。ひとつ年上の兄とまだ2,3さいだった妹と両親と知り合いの人の持つ持ち山ならぬ雑木林に栗拾いをさせてもらいに案内されて行ったのだった。とっても山奥でほとんど、は獣道ばかりでところどころが針金を使って幅を広げてあり、人がやっと通れるように低木の細い木々が抑えられていた。母はまだ小さかった妹を背に負ぶっていて、5人で延々と栗を拾いながら進んでいったのを思いだした。うちの親はいつも本気になって一緒になんでもする親で夢中になって栗を拾ううちに、背に負ぶった妹のことなど忘れて針金に妹の首を引っ掛けたぐらいであった。そのときの光景はいかにもおかしくてあのときの大笑いを今でも思い出し笑えたのだ。うちの両親は夏は海へ、春や秋はその時々に応じてきのこや山菜、いろんなものを摘みに連れ出す親だった。、私が今でも時々ひとりで海に行ったり、木々に囲まれてるだけでなんとも言いようのない充実感に浸れるのはそのせいだろうか。冬に雪が降っては心弾むし霜が降りると雪を待ち遠しく思う。それって大人になった今子供の頃から身につけ貯め続けてきた、すごい財産であるかのように貴重に思えてしまう。季節が変わるのは私には誰よりも楽しいことのように思えるし、その遊び心のような趣、自然の楽しみ方を一緒に楽しむことで教えてくれた親をとっても誇りに思う。でもその親には到底恥ずかしくてそんなこと絶対面と向かっていえない。のだった。