1/2/11

私の宗教観

私の思う宗教というものは人が苦境にあるときに希望を与えて生き抜くことを教えてくれるもの、人を幸せに導いてくれるものであるというものだ。そうであって欲しいと思う。だからそれぞれに宗教を選んだり、どの神様をどのように信じるかは個人の心の赴くままに選べるものであって欲しいしあるべきだと思う。選べるという選択にこそ複数の宗教が世界に存在することの本当の価値であると思うから。

 世に出るようなすばらしい作品というものは人それぞれに内在する愛とか人それぞれの思考のエネルギー、またはその源そのものにアクセスが成された瞬間、inspireされた瞬間、最大限に外の世界に表現されて実現化したものであるという。歴史に残る芸術品、名作の一品とはそのように創造されたものだとエイブラハムは説明する。だからそういった優れた作品は人の心を打つし、人にインスピレーションを与えることがで きるのだと。どんなに優れた作品も、物質的なレベルだけで記述すれば、本というものはインクで落書きされた一片の紙の束であり、絵画というものはペイント(絵の具) が紙の表面に落とされた一片の紙であり、それ以上の価値はないことになるのだから。
個人的には、宗教、哲学、音楽や本などに見られる人の考え方や アイディア,美しさ、美しいものそのものに触れることこそが私にとって宗教のような存在に近い。

本を読むのは昔から大好きだった。ある人に出会い、映画の魅力に取り付かれてからは私の楽しみや趣向も広がっていって、夢も広がっていった、私がここアメリカで住みた い、生きたいと夢みるようになったきっかけでもあった。映画に親しみながら、英語の音楽にもなれ親しむようになっていった。不思議なことに本も映画も音楽もそのときそのときの感情によってその状況の私自身に一番必要なものが私の人生、私の手元には入ってくる。その偶然のすごさをいつもあとで振り返って驚いてしまう。それは自分の置かれた状況を客観的に見せて笑わせてくれるようなものであったり、近い将来を暗示するようなものであったり、ある状 況を違う視点で考え、ある方向に導くような作品であったりする。だから私には映画や曲の歌詞のメッセージを最も重要視するし、歌っている人の人生観を知ろうとプロフィールをよく読んだりもする。だからというわけではないけれど、私は本を読む人、映画を好きな人が好きだし、そういう人とはよく気が合う。きれいなものや趣向の凝ったアイディアやデザインに触れるのも大好きだし、”もの”を作り出せる人、楽器を弾ける人にいつも強い魅力を感じてしまう。アーティストはいろいろな意味で学ぶことが多いのだと思う。


だから 私は何か心に不安があると き、本屋、図書館へ自然と関心が向いてしまうのだ。私にとって宗教といいうものはいつも考えたくもないような話題であったから、俗に言う宗教のメンバーになることで幸せになるという意味が理解できなかった。ある特定の宗教を信奉しようという思いもずっとなかったし今もない。宗教というものは自分が死んだときに後に残された者が気にするものだと思っていた。
だから自分自身のことを宗教とは無関係な、読書を信じる現実主義な本の虫だと思っていた。インターネットが生活の一部になった今、読書の時間は極端に減ったが、テレビはほとんどといっていいほど見ない。それでも何かを、読みたい、知りたい、経験したい、という衝動はいつも私のどこかにある。今まで、読むべき本は自然に手元に入ってきていたし、読みたくない本はそのとき手をつけずとも、ある程度時間がたった時に振り返って取り出し、読んだりもする。最近のようにオンラインでの情報が豊かな今では以前読んだことのある本の内容を思い出そうと、オンラインでサーチ する間に、次に読みたい本、調べたいと思うような関心を見つけたりする。ネットサーフィンは本当に興味深い。誰にも強制されることのないそのときそのとき の知識のサーチ、検索は私がインターネットを使うこと、オンラインへのアクセスが生活になくてはならない主な理由だ。
2010年の夏、私は体調を崩してオンラインへのアクセスがなかった時期がある。とてもつらかった。それでもその時の衝動に赴くまま本屋で見つけたのがニーチェの哲学を説明した本であった。インターネットへのアクセスがその時あったらきっと本屋になど行かず、見つけていなかったであろう本だ。
宗教の壁を越えたエイブラハムの教えを知った今、それぞれが違うということを尊重する意味でいろいろな考え方があっていいと、宗教というものそのものの存在意義を否定しない。
私にとって宗教といいうものはいまだに抵抗の強いトピックであるのだけれど、大学時代、あるチャペルの先生が、自分を信じるということは神様を信じるということであると教えてくれた時から、私の抵抗は少しずつ減っていったことは確かだ。アメリカへの留学、グランドキャニオンへの旅、アメリカへの移住、結婚、病気を経験し、苦しい時期を乗り越えて、到達したとしたのは何があっても生き抜くことが宗教や何よりも一番大切だということだった。

私が生まれた日本という国は文化的にアメリカのように人と人との間に宗教によって生じる隔たりがあまりない。寺院も多く、歴史的に仏教の教えが広まっているというのも事実であるけれどもさまざまな哲学や宗教も存在している。地域のお祭りなど、神道の教えがいまだに生活、文化に根強く存在しているのも本当だ。でも、だからといって神という存在を比べたり大小の区別をつけたり比べたりする考えやこだわりをあまりもたない。だからといって精神(霊)性や神性が軽視されているわけではなく、むしろ逆でしかもただ漠然としている。この小さな島国で、仏教以外の渡来の宗教を信じる人口が少数派なのは小さな土地で人と人とのかかわり、交わりが一層強い状況において人との同調は日々の生活に必然的なもので、そこから突出するような、異なるアイディア、異なる宗教などは環境的、歴史的に根付きにくかったのだろうと想像する。
あまり語られてはいないが、日本は過去にキリスト教を迫害した歴史を持っている。その当時の封建領主は、キリスト教を民衆に対して、その支配者よりも偉大な存在を教えているといると、それが迫害の主な理由であった。日本だけではなく歴史的に政治は宗教と深いかかわりを持ち、人を支配する為に宗教をうまく利用していたのだ。細かいところはもう覚えていないが、遠藤周作の「沈黙」はその迫害と宗教についての矛盾についてよく描いていた。その著書を読む機会は大学時代にもたらされ、聖書 (新約だけ  :))を読む機会を与えてくれた以上に私には貴重であった。

私はある本を読んで見つけたことをこのブログを通してお友達に知って欲しくて、共用したくてこれを翻訳したり書いているだけで、どれかひとつの宗教を選んだり宗教を持つことを薦めているわけではないことを理解してほしい。
宗教というものが人を幸せにしてくれるものであって欲しいと心から思う。だからどの宗教、どの神様を信じていようと人を愛とか悦びといった幸せな気持ちに導いてくれるものである限りその教え、祈りに大きな意義があると信じている。

私は聖書という書物が今まででもっとも多岐にわたって描かれたスピリチュアルな書物だとするエイブラハムの一言に関心をもちはじめている。人それぞれによってそのいろいろな解釈が違うということが私にはとても興味深い。私は聖書というものは人生を無駄なく生きる為、発展と拡大を続けていく為ののヒントそのものであり、instructions、directions, recipes(いい人生への指示、やり方、作り方)というようなものかもしれないと思い始めた。でもそれをうまく応用して使うことができなければきっと本当の理解も意味もないのだ。
人間だけがもつ言葉というもの、それによる創造やアナロジーはそれだけで芸術なのだ。
"I believe in what Jesus tried to teach,but I am not a(conventional) christian"??thats my honest statement