1/7/11

私の夢

1992年の夏、私は夢のネックレスを手に入れ、人生で叶えたい夢のエッセンスを持つ石を選び注文をした。私が選んだのは仕事と愛の成就、健康だったように思う。
仕事と愛さえあればその人生には自然とお金というものは入ってくると信じていたし、私を本当に愛してくれる人との出会い、恋愛は最も夢みたものだった。そのためには痛い失恋を経験しなければいけないだろうと信じていたし、たくさん恋愛したかった。多くはなくてもそれを少し充分に経験して現在に至っている。

私が昔からなりたいと思っていたのは学校の先生であった。学校が大好きだったし、いつも友だちにも恵まれていた。何より、いつも先生に恵まれていた。その学びの環境にできるだけ長く身を置きたいがゆえの夢の職業であった。
高校では、本当は英語を、文学を学びたかったのに、自分自身の勘違い、思い違いから理数系のコースを選択してしまったのだった。理数系の頭脳を持たなかった私はかなり苦しみつつ、寝る時間やその他の楽しみを生活に見出すことなく必死で勉強していた。ある意味つらかったけれど、勉強している間は最も心がいろいろな悩みから解き放たれる時間でもあった。

高校時代のがんばりすぎた反動で大学時代、私はあまり熱心に学ぶということに興味をなくしていた。失くしていたというよりもがんばりすぎた結果、ある意味燃え尽きていた。それでも学生生活は友人に恵まれ、楽しいものだった。英語の教師になるべく教員免状を取得し、先生になるのも悪くないとまた思い始めていた。しかしその時の私の英語の能力は人に教えるほど優れたものでもなく、生徒を感化できるような人生経験もなかったのだ。当時のボーイフレンドに感化されるまま、私は英語を学ぶべく卒業後しばらくしてとうとうアメリカへ渡ることを決心したのだった。
アメリカに行けばなんとかなるといった漠然とした期待がその時の私にはあって、初めて親元を離れ住み、いろいろな経験が私を待っていて、限りなく自由な日々は本当に幸せに満ちていてすべてが輝いていた。
アメリカに渡った後の後の数年は心の赴くままに学ぶということ、いろんな人に出会うということを楽しむプロセスそのものであった。
その後私は大学でとった中東政治についてのクラスで出会った夫と結婚した。幸せだけがあるはずだった私の結婚を待っていたのは人生についての本当の学びの経験で、幸せなとき、恵まれた経験もたくさんあったが、こうして今離婚を目前にして振り返ると、つらいこともたくさんあった。

病気を経験し、生活と人生そのものに制限を持ってしまった私が非現実的にも、仕事を持つということにこだわりを持ち続けたのは私が夢をあきらめきれなかったからだと思う。私が初めてアメリカで仕事に就いたとき、私の人生は輝きはじめたから、私はある意味夢の実現に導かれていたのだと思う。その後の数年はその記録を何とか残したくて、いろいろなことを書き記そうとしたのだけれど、努力すればするほど、そこには説明がなく、誰かに理解されるはずも無いと、経験だけに焦点を当てるように自分勝手に生きていた。そのうちに、いつしか自分の人生の滑稽さ、面白さに気づき、それでいいのだとさえ思うようになっていったのだった。人を触発するのは文や教育そのものではなく、経験やメッセージそのものこそがエッセンスなのだから。

この夏、私にはある種の啓示があった。こういえば聞こえはいいが、それは本当のよい教師とは、本当のメッセージが何かを私に気づかせるプロセスそのものであった。
それはまったく単純ではなく、その答えにたどりつくまでは非常に難しい精神的にもつらいものだった。もし私が甘えから、投げ出すことのできる環境にそのときあったら、私は夢をあきらめて、他人の夢を生きる道を選んでいたかもしれない。でもそれは本当のメッセージではなかったのだ。本当の良い教師とは生き様で理解を導く人だ。私は頑固にも反面教師にはなりたくなかった。つらくても自分を信じていたかった。

その啓示の内容そのものはあるものを壊すというものであったのだけれども、宗教感を強く持たない私自身と仏教の教えを信じる親の価値観、環境、私の論理的な思考には全くそっていなくて、私はとっさにあるものを変えると書き換えた。その書き換えに不可解さを持ちつつ、自分の判断に確信を与えてくれたのはニーチェの本であった。何かを壊してしまうということはそれ(破壊そのもの)が自己の一部になるということだ、そのことをよく考えてみたのかと言うページがあった。
ある本は読んではいけない、それはただのヒントであり、それには読み方がある。宗教の為に生きるのは間違っているし、宗教を仕事にしてはいけない。宗教のために人が死ぬようなことがあってはいけない。これから教えていくべきは命の大切さ、愛といったもの。何かにこだわってただ信じるのは星占い程度で十分だ。ということ。

そのとき、私自身が何か大きな計画の一部であるのだろうと推測はできても現実的な確信はなかったし今もない。でも、もしこの経験に真実性があるのならば、私は誰に対してもあれこれひとりで勝手に決めつけて指示したり命令したりはできないのだ。なぜならそれこそがエッセンスであるから。私がそのメッセージの重さにつぶされそうになり、夢の実現なんて、私一人ぐらいあきらめても私の代わりはいくらでもいる、そんなことなんて誰かに任せればいい、もう死んでもいいと思った瞬間、私の夢のネックレスが胸元で切れて、私はひどく泣いた。絶対に犯さないときめていた過ちを繰り返してしまったと思った。もう一度やり直すチャンスを請うた。やり直しは生きている限りいくらでもきくと信じたかった。
仕事の夢はあきらめられても、私がみつけた愛だけはあきらめずに持ち続けていたかった。だから私は自分を精神的にも身体的にも回復させ、夢を追うべく現在に至っている。そして両方の夢をかなえるチャンスを待っている。
私は自分を回復させるために私の能力を十分に活かせる仕事そのものが欲しかった。楽しめる仕事、人それぞれが適性を活かせる仕事をすること、それに従事することこそものごとのあるべき形であると助言してくれたのは私の尊敬するお友達だ。愛も仕事もあきらめたくはない。両方が可能であると信じたい。
もし私に適性があるとすれば、リーダシップ?、教師のような存在かなと時々自分の性格を客観的に判断して思う。
その機会はまだ与えられてはいないけれど、きっと夢をあきらめない限り、いつかは導かれていくのだろうと思う。
メッセージは届く人には届くし、届かない人には届かない。でもあきらめないこと、いつかは伝わると信じることはやっぱり大切だ。
その啓示があった夏、私がこだわったのはオーガニックのトマト、蛙、雨、飛行機、空港、占星術だった。すべて私の好きなものだ。すべてが私を救ってくれた。そして好きなものだから信じられた。
トマトは私の大好きな野菜であるだけでなくいろいろな思い入れがある。日本では野菜、アメリカでは果物らしい。
品種改良がいけないといっているのではないけれど、子供の頃食べた品種改良以前のトマトの匂いあふれる祖母の畑で食べたトマトの味を私はいまだに忘れられないのだ。私の愛する祖父の好物でもあった。
私は夫とよくオーガニックのプチトマトを庭で栽培していた。病後にひどい欝を経験していて、死と絶望を思っていた私にとって花を育てるということ、植物に触れ、囲まれるということこそが私が当時しがみついた救いだったのだ。
花は簡単に毎日きれいに咲いてくれたが、トマトはなかなか花がつくまで時間がかかった。私の心の中には密かなギャンブルがあって、もし実がならなかったら。と。非建設的な命を欠けた思いがそこにはあった。幸運にもトマトは実り、想像以上の収穫を私にもたらしてくれたのだった。私はそのときから少しずつ生き返って、病気前の元の私に戻りはじめていた。買い物にも一人で出かけていくようになった。
私が有機栽培にこだわったこともあり、庭には蛙やトカゲが出現したりしてくるようにもなったし、鳥も多く訪れた。夫と共にそれらをよく楽しみ慶んだものだった。
夫は時に私が買いすぎたり育ちすぎた植物の苗を友人にあげたりして処理していた。けれど決して頑固にひとつひとつを投げ捨てたりあきらめたりしない人だった。植える場所がなくても、チャンスをあげよう、と絶対に育ちそうもないところでも水を与え、チャンスを与え、植えていた。それらの苗がどうなったのか私は関心を払ったりしなかったけれど、夫は私の目に触れないようにそっといろんなことを処理する人だったから私はよくは知らないのだ。ものごとの生き残りはそれぞれがきめる。ほかの誰でもないということを彼は教えてくれた。

私の住むところハンボルトは本当にたくさんの雨が降る。たくさんすぎて冬の雨の季節には欝になってしまう人もいる。雨の音は人の心を癒すというから、この地域の人は毎年たくさん癒されている。私は快晴、青空のほうが好きで、雨は正直なところ好きではないけれど、私の愛する人は雨が好きだから、結局私はすべてを愛している。快晴も青空も雨もすべてはおなじもののそれぞれの一面だ。

この夏、私がいた日本は梅雨の季節だったのに、梅雨らしくなくて私が覚えているのは快晴が多い。私は日本にいながらひどくホームシックになってしまって何を見てもハンボルトが恋しくて仕方がなかった。日本での経験は二度と思い出したくはなかったから、もう書くのはやめるつもりでいたのだけれど、まだ少しの愛が感じられる限りがんばれるかもと思って私は懲りなく書き続けてきた。
日本にいるときには私が何かを書いたり、核心に触れたりすると大きな雨音がして蛙の鳴き声と救急車のサイレンの音が耳から離れず、意味もなく怖かった。でも私を癒そうとただ励ましてくれていただけなのかもしれない。 
蛙は私が宗教にこだわって、自分の夢よりも他人の夢をかなえようと自分を捨てて物事を変えようとするたび、ひどく泣いた。
空に起こる現象、これから起こる現象の結果、解釈は一人ひとりが決めればいい。
何があっても後世に残るべきものは残るし残るべきものでないものは残らないのだ。
だから今を生きて期待し続けること。一番楽しかった、楽しいことが続くと信じて期待して感謝して祈ること。
私の夢はまだ変わらない。頑固でごめんなさい。
好きなものは好き。起こったことは起こってしまったこと
本当に正しいことなんてすぐは分からない。後から分かる正しいこともあるかもしれない。、今正しいと思えること信じられることをするしかないの。
消化できないもの以上のことが起こらない、そのことこそ自体が救いだ。

だから私を支えてくれる人たちすべて、一緒に人生を楽しんでくれるすべてに感謝!!thank God!!