7/16/12

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歴史

(工事中)
紀元前〜19世紀
ユダヤ王国は2500年以上前にこの地に栄えていた。紀元前10世紀頃、ダビデ王、ソロモン王の時代にユダヤ王国は最盛期を迎えた。紀元前63年、ユダヤ王国は、ローマ帝国によって征服された。
7世紀、パレスチナはサラセン軍によって征服された。
他の中近東諸国と同じくイスラエルの地は、16世紀以降オスマン・トルコの支配下にあった。
19世紀
シオニズムとは、パレスチナの地にユダヤ民族の国家を公的に建設する事を目標とするものである。このシオニズムは、テオドール・ヘルツェルにより提唱された。1897年、スイスで第一回シオニスト会議が開催された。
20世紀
ヨーロッパからパレスチナへの移民は、20世紀に入り急増した。1930年代 にはパレスチナのユダヤ人口は16万人に達した。
1914年、第一次世界大戦が勃発した。
オスマン・トルコはドイツなどの同盟国について参戦した。オスマン・トルコの領土だった東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)で、イギリス、フランス両軍とオスマン・トルコの間で戦闘が繰り広げられた。
イギリスとフランスは、戦後に東アラブ地域を両国で分割する条約を秘密裏にかわした。
一方、イギリスは、メッカの大守フセインに対し、オスマントルコに対する反乱の見返りに、勝利した暁には東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束した。
他方、1917年、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ人の有力者ロスチャイルド卿宛に、「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人のナショナルホームを設立を支持し、努力する」事を確約した書簡を出した。これがバルフォア宣言である。
つまりイギリスは、同じ札をフランス、アラブ、イスラエル三者に出したのである。これが現在のパレスチナ、イスラエルの争いの出発点となった。
1918年、第一次世界大戦が終わった。
イギリスとフランスは、アラビア半島を両国で分割した。フランスは、イラク北部、シリア、レバノンを自国の統治、勢力圏に編入し、イギリスは、イラク北部の一部地域、中部、南部、ヨルダン、パレスチナを自国の統治圏とした。
パレスチナはイギリスの委任統治領となった。国際連盟もこれを追認した。
メッカの大守フセインの3男ファイサルはロレンス(アラビアのロレンス)とともに、1918年ダマスカスを攻略すると、アラブ臨時政府を樹立した。しかし1920年、フランスの攻撃によりダマスカスより追放され、シリアはフランスの統治下に入った。
この時フセインの次男アブドゥラーはシリアへ向けて進軍したが、途中イギリスの妥協案ーイギリス委任統治領となったパレスチナの東半分、つまりヨルダン川 以東をアブドゥラーの領土とする事を提案した。アブドゥラーはこの案を受け入れ、パレスチナのヨルダン川以東は、トランス・ヨルダン首長国となり、アブ ドゥラーが初代首長となった。
こうしてイギリスの委任統治領として現在のイスラエル、パレスチナの領土が決定された。
1947年2月、イギリスはパレスチナ問題の解決を国連に委ねた。これを受けて1947年11月、国連総会は国連アパレスチナ特別委員会(UNSCOP) のパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案を賛成多数で、採択した。アラブ諸国 は反対票を投じ、決議に対し強く反発した。
アラブ諸国により構成されていたアラブ連盟は、ユダヤ人国家を武力で阻止すると宣言した。アラブとユダヤは武力衝突に突入した。
イスラエル独立
1948年5月1日、イスラエル国家樹立がテルアビブにおいて宣言された。この国家樹立宣言を機に、周辺アラブ諸国がイスラエルと戦争に突入した。第一次中東戦争である。
シリア、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、イラクの各軍がイスラエルと戦争状態に入った。イスラエルは兵力、装備ともに圧倒的に不利であったが、アラブ各軍の準備不足もあり、次第に優勢になった。
1949年2〜7月、ギリシャのロードス島で休戦協定が各国と順次結ばれた。
休戦協定によりイスラエルの領土は、パレスチナ全土の約3分の2を占めた。これはイスラエル領を国連によるパレスチナ分割決議にあるパレスチナ全土の57%とした地域を大きく上回った。
イスラエルとトランス・ヨルダンは休戦協定により、エルサレムを東西に分割した。旧市街地を含む東エルサレムはトランス・ヨルダンの支配下に、西エルサレ ムはイスラエルの支配下に入った。 この戦争によりパレスチナの土地に住んでいたアラブ人数十万人が難民となった。
この戦争後、トランス・ヨルダンは、ヨルダン川西岸および東エルサレムを自国領に編入し、国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」に変更した。またガザ地区はエジプトに編入された。こうしてパレスチナ人の土地は3国により分割された。
1956年7月、エジプトのナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言した。イギリス・フランス両国はイスラエルとともにエジプトに対する共同作戦を取った。 1956年10月29日、イスラエルは、ガザおよびシナイ半島に進撃した。これと同時にイギリス・フランス軍がエジプトへの攻撃を開始した。スエズ動乱 (第二次中東戦争)である。これに対し米ソ両国が英仏に圧力をかけ、両国は2カ月後撤退し、イスラエル軍も翌年3月撤退した。
PLO結成
エジプトのカイロ大学のパレスチナ学生の組織「パレスチナ学生連合」の主要メンバーを中心にして1950年代末、「ファ タハ」が結成された。「ファタハ」は、パレスチナ解放を目的とし、イスラエルに対してゲリラ闘争を挑んだ。そのリーダーがヤセル・アラファトだった。 ファタハは1964年、イスラエルに対する初のゲリラ攻撃を行った。
他方、アラブ諸国の肝いりで、1964年5月パレスチナ人組織PLOが結成された。このメンバーは以前から知られていた政治指導者たちであり、エジプトのナセル大統領のコントロール下にあった。あくまで政治勢力であり、武装闘争組織ではなかった。
この時PLOとは全く関係のなかったファタハはシリアに支援されて、イスラエルに対する攻撃を繰り返した。他のパレスチナゲリラも攻撃を行った。このゲリラ活動により、アラブとイスラエルの緊張は高まった。
1967年5月22日、エジプトのナセル大統領は、紅海とアカバ湾を結ぶチラン海峡封鎖を宣言した。 イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の航路だった。
アラブ側は戦争の準備を着々と進めていた。
しかし6月5日、突如イスラエル空軍はエジプト各地の空軍基地を攻撃した。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けた。アラブ側はイスラエルに制空権を握られた。エジプト、ヨルダン、シリアは停戦を受け入れた。
この戦争はアラブ側の敗北で、6日間で終わった。故に6日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれる。
この戦争でのイスラエルの圧倒的勝利により、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区を支配下においた。
約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ。ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となった。この人口構成により、ヨルダンでは大きな政治勢力としてパレスチナ人を抱え、国内政治情勢は不安定となった。
イスラエルは統一されたエルサレムを「首都」と宣言した。しかし他国は(日本を含め)これを認めていない。あくまでテルアビブ首都であるとして、大使館は テルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに反論した。
国連安保理は1967年11月に、安保理決議242を採択した。この決議は、占領地からのイスラエル軍の即時撤退と、中東地域の全ての国の生存権をうたっている。
1969年、PLO議長にヤセル・アラファトが選出された。ファタハはPLOの最大勢力となった。
1970年、黒い9月(Black September)、ヨルダン内戦。これによりヨルダンで活動していたPLOメンバーはレバノンに移動した。
1972年5月、テルアビブのロッド国際空港(現在のベングリオン空港)で、日本赤軍の岡本公三ら三人が自動小銃を乱射する事件が起こった。
1973年10月6日、エジプト、シリア軍が、イスラエル攻撃を開始した。10月戦争(第四次中東戦争)である。
10月17日、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、いわゆる「石油戦略」を発動した。これはアラブ支持、イスラエルの占領反対国以外に対し、石油禁輸 や削減を行う。原油価格を70%値上げするというものだった。アラブの石油に頼っていた日本では、この石油ショックは、トイレットペーパーまで店頭からな くなるというほどのパニックを引き起こした。
1974年、アラファトPLO議長は、国連総会で演説し、国連総会はPLOに国連オブザーバー資格を付与した。
1977年11月19日、エジプト大統領アンワール・サダトは、イスラエルを訪問した。
1980年、イスラエルとエジプトは国交を回復した。
1982年6月6日、イスラエル軍がレバノン領内に侵攻した。イスラエル軍は西ベイルートへ進軍し, PLOとシリア軍を包囲した。この包囲は2カ月間続いた。
アメリカの調停により、PLO本部はチュニスへ、約7000人のゲリラは各アラブ諸国へ移動した。
1987年12月、ガザ地区とヨルダン川西岸でパレスチナ人によるインティファーダが始まった。「インティファーダ」とはアラビア語で大衆蜂起を意味す る。ガザ地区とヨルダン川西岸各地で、パレスチナ人とイスラエル軍が衝突した。パレスチナ人は石や火炎ビンで軍と衝突し、多数の負傷者や逮捕者を出した。 ゼネストも頻繁に行われた。
1988年、アルジェで開催されたPNC(パレスチナ民族評議会)は、パレスチナ国家独立を宣言した。そしてアラファト議長は、テロの放棄、イスラエルの生存権の承認、国連安保理決議242、338の受諾を表明した。
1993年9月、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との間で、「イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認し、5年 にわたって自治政府による自治を認め、イスラエルは入植した地域から暫定的に撤退。その5年の間に今後の詳細を協議する」というオスロ合意が署名される。
1994年7月、アラファトPLO議長がガザへ帰還。
1995年9月、パレスチナパレスチナ暫定自治政府設立。
2000年9月、第二次インティファーダが勃発し、和平交渉中断。
2004年11月、アラファト議長逝去。アッバースPLO事務局長が議長に就任
2005年9月、イスラエル、ガザ地区から撤退。
2006年、パレスチナ立法評議会選挙で、ハマスが過半数の議席を獲得し、ハマス主導の自治政府内閣が成立。
2007年3月、ファタハとハマスが挙国一致内閣の樹立で合意し、同内閣が成立。その後、パレスチナ内部の衝突が頻発。
2007年6月、ハマスによるガザ地区制圧。アッバース大統領は自治区全域に緊急事態を宣言し、緊急内閣が成立。