3/5/11

Abraham explains about a dictator and




(日本語意訳)
Q
なんとなく質問の答えはバイブレーションだと分かっているのですが、質問があります。もし私たち一人ひとりが純粋なプラスのポジティブエネルギーの存在であるとしたら、ヒトラーやジェフリードームといった独裁者、大量殺戮者をようにを説明するのでしょう。

A
そういった極端な例について人は非難することのほうが理解することよりも楽であるからあまり知りたがるものではなくそこに問題があります。それらの存在はあなたたち一人ひとりと全く変わらない存在なのですよ。問題はそれらを正しく理解し許すことよりも非難することに納得し安心を覚えてしまうところにあります。人がいろいろな状況を探求する中で欲しいものがあるのに、それを手にすることができないと、一人ひとりの中に抵抗ができてしまいます。現実と夢のギャップが大きくなっていってしまうのです。問題はその非難する感情に慣れていってしまうことにあります。
あなたに内在するポジティブなエネルギー、価値観を元に欲しいものができていくでしょう。それは誰だって変わらないのです。ヒトラーだって人生の経験の中で、自己の存在と夢の拡大があって、欲望ができてくる。その欲望、夢と現実が全くかみ合わなくなったとき、かみ合わない不調だけがおおきくなっていくとき、小さな耳鳴りを理由に人を殺し始めるのに誰しもそう時間はかからないものなのです。そういったとき人は思ってもいないような行動に出てしまうものなのです。これはとても大きな課題であって、ほとんどの人は聞きたいとも思わない。憎しみを持って納得してしまい快適さを覚えてしまうところに多くの問題があります。それでもあなたの中に存在する本当のエネルギーは決して憎しみや非難という感情を持たないのです。どのように見えてもその源は愛なのです。
ほとんどの人は悪い人をこちらのグループへ、良い人はこちらのグループへと分けることになれてしまって憎しみや非難を持った状態に快適を覚えてしまう。私の神さまは憎しみに満ちた怒りの存在であると勘違いし、憎しみをもちつづけることのほうが楽になっていってしまう。でもその大元のエネルギーは憎しみというものを持たないただポジティブな愛の存在であるのです。すべてのそういった極端な行為はそこから離れた外の世界で起きるのです。

Qでは、次の質問はどうして人間はそういった極端な行為に及ぶようになる
のでしょうということになります。

Aたとえば、ジェリーとエスターがアリゾナのフェニックスからカリフォルニアへ行こうとするときのたとえ話があります。かなりの距離があるからとがっかりして中間地点でたどり着くのをあきあめてしまったら?、今の状況に不満足のまま、目的地にたどり着こうとするのをやめて、たどりつこうと歩くのをやめて出発地点に戻ったりしていたら、どこにも進まず途方にくれてしまうだけでしょう。そんな自信のない、無力で途方にくれた状態においては仕返しの感情のほうがある意味、自然であろうし、なぜなら怒りのほうが無力よりも自然でしょう?そして、怒りの方が欲求不満よりも自然でありと思うし、無力でいる状態よりも怒りの状態のほうが自然であろうし、多くのものは無力と仕返しの状態を繰り返してしまう時もあるけれど、その繰り返しから希望が出てきて復讐から離れ、より心にそっていくでしょうし、希望から信じることの方が心にそっているでしょうし、信じることよりもたどり着くことを知ることのほうが抵抗がないと次第に理解していくでしょう。

多くの場合、その大元には虐待されて育った子供時代が議論されます。言うことを聞かない子供を目の前にしてそれを見守る者の感情を子供に押し付け、子供の存在そのものを抑圧し、無視して自分の感情を子供の感情として無意識に押し付けてしまう。それでもどんな状態であってもポジティブな方向に焦点をむけていく人もいますが多くの場合、行為自体に一貫性さえないのに、押し付けに固執してしまう。あなた自身、一人ひとりに存在するポジティブなソースエネルギーだけはいつもどんな状況でも一貫しているのにです。


ポジティブな力に夢の方向に押されてもその方向に行かないと、その力そのものへの抵抗だけがおおきくなっていくのです。そして苦しめば苦しむほど楽になることを求め、求めれば求めるほど、失望も大きくなっていく。そして、多くの場合、そういった悪循環の中で、復讐の行為がまず現れますが人はそれさえも非難する。、まず教師がすべてのその責めを負い、母親が責めを負い、親が責めを負う。誰も例外なく一人ひとり、気づかないうちにそうしているでしょう。それでもそれら一人ひとりの存在の大本はポジティブな愛以外の何ものでもないのです。ある無力な状況において、最も大きな強い感情的な力は復讐になってしまうのです。でもそこに留まってしまうことに、すべての、この問題を語ることの問題があります。

もしも誰かがあなたの顔に枕を押し付けたら、あなただって自分でも驚くほどの力、驚くような言葉や表現を自分の中に見つけるのでしょう。生き残る為に起き上がるでしょう?多くの人は悪い人をひとまとめに、良い人をひとまとめにして悪い存在を閉じ込め、鍵をかけて安心してしまう。それでも、私たちが悪い存在、行為を目の前にしたとき、自己の焦点を良い方に、愛に、許しに焦点をむけることができなければ、良いも悪いも関係ないのです。悪いと思ってることに焦点を向ける言い訳を作り出しているうちは何も変わりはしないいのです。