12/13/10

Davinci Code (movie)

ダビンチコードという映画を見た。以前に一度見ていたはずの映画、今回はまた違った発見があって興味深かった。
なぜか私は今年に入ってからシンボルというものに振り回されていたように思う。星占いひとつをとってみてもそれはシンボルの解釈にすぎないもので、私にはある意味楽しいものではあるけれど、複雑なことでもある。シンボルも宗教も見方によってはいろいろで、信仰心というものなくしてみても興味深い。
この映画の終わり方を見ても分かるように、さまざまな事象や現実といったものは人それぞれが信じること、信じるときめたことに意義があるのだと思う。それでも、私個人の宗教観とか宗教という組織そのものに対する個人的感情はあまり変わらない。そう結論付けた上で、この映画が論じていた、キリスト教の教会の権力の源というものを理解するうえでこの映画は興味深かった。
もしもキリストが肉体を持った人であったのならば、教会が継承してきたひとつの神、いかにもキリストそのものを神とあがめるような教会の機構や教え方に疑問がでてくる。
そこで、そのキリストの人間としての存在があったという証拠を隠すということの意味、隠されたことがダビンチの絵に隠された秘密、もしくは教会の権力を翻すような”秘密”であるというのがこの映画の大筋でのストーリーだとわたしは解釈した。もしかしたら私の知らないそれ以上の意味があったのかもしれないが、キリストが生身の体を持った存在であったということ、ある女性の存在がダビンチの最後の晩餐の絵のなかでシンボル的に描かれているということを興味深くこの映画は描いていた。見る人それぞれによって見方(受容の仕方)がちがってくる絵とはこ現実というものそのものの様であると私は感じてしまったから。そのことををこのように表現するとは、ダビンチの絵にしろ、この映画の描き方にしろ天才的だと思った。
この映画を見ている時に思い出した少し前に世界的ベストセラーとなったシークレット(秘密)という本がある。今まで隠されてきていたそのシークレット(秘密)の内容とは心や思考のちからというもの。個人個人の思考がものごと(現実)をつくりだしているのだということ、人という存在には肉体の部分と霊的な部分があり、その霊的な部分の新しい認識と正しい理解こそがその秘密そのものだったのだけれど、この本自体は夢を現実にするという実用的な側面に焦点を絞りすぎて実際のメッセージが薄れてしまった感があるが、物質的なもの以外の部分に目をむけた事において意義は大きかったようだ。それでも抑制されていた個人個人の持つ信仰心、教会や組織が持っていたパワーは宗教への信仰心というものから人の心を自由に解き放ち個人個人にその責任と能力を教えたという点で、やはりこの本も、宗教関係者が恐れるような”秘密”の本となるのかもしれない。宗教という存在に心地よさや安心を感じる人もいるわけで、宗教そのものの存在を否定的に問うつもりもないけれど、何故か誰もが知りたくなるような”秘密”という表現ををそれぞれ使うところが興味深いところ。

このふたつの作品が描いている”秘密”を組み合わせると、キリストは生身の人間でその霊的な部分において優れた存在であったのではないかと思う。
私の理解するキリスト像は誰もが一緒にいたいと思うような天真爛漫で魅力あふれるとっても人間らしい人で、人に対する凄い知識や理解をもちながら、人として、肉体を持った人の存在として飲み食べ笑う、感じるというようなことを最大限に行い人生を楽しんだ人だったのだろうと思う。あまりにも人生が楽しかったからそのことをほかの人にも教えたかったのだろうと思う。
それが何故あのような貼り付けの絵と自己犠牲のみが頻繁に語られるのだろうかと時々不思議にも思うけれど、きっと人生、どんなことがあっても、だまされても、つらいことがあっても(いいことにも悪いことにも)物事には終わりがあるということ、いつ何があってもいいように人生をそのときそのときを大事に生きましょうっていう命がけのメッセージだったのかもしれない。生の大切さは大事なものの死を経験して、もしくは失くして初めて理解できるということかもしれない。
この映画においても痛々しく描かれているように自己犠牲という側面にだけ目を向けてしまう人がいるというのはどこかでそのメッセージに対して後ろめたく思うような状況に気づきはじめているということかもしれない。人って心底に響くような偉業を目前にしたり感じたりする時自分も自然と何かしなくてはって思うものでしょ。あまり表現されることないけれど、そういう人間の心理ってすごいと思わない?。それを本当のinspirationっていうんだよねきっと。

そしてもし本当に、復活祭というような行事に見られるような”復活”というものがあったのならば、それはそれで、人には何度でもチャンスが与えられているというメッセージにすぎず、かみ様や奇跡、何でもそれを信じる信じないはいつもそれぞれ個人にまかされているということかもしれない。