12/25/10

ことばというもの、自由というもの(words and freedom)

言葉というものは難しい。日本語と英語ふたつの言語を学んで使えるようになった今でも,言葉が十分でなかったり説明が不足していたのではないか、誤解を招いたのではないかと不安になるときがある。何も言わなければ何も起こらなくてもよかったかもしれないのにと後悔してしまう時がある。それでもすべての言動、行動の源は[したい]からであって、それはほかの誰とも変わらない。誰かにしたくないことを意に反してまで無理やりしてもらっても、私はうれしい中にも不正直さを感じてしまう。この世界にあふれているものは好ましいこと好ましくないことの対比で成り立っている。選択肢を自分の眼で見て感じて選ぶこと、それがエイブラハムの意図する生きるということであった。生きることの楽しみはいろいろな現実から心にひびくものを探り出すという経験そのもの、それが生きることの悦びの一部であるとした。
人は人を自分の好きなようにコントロールしようと、利用しようと思うとき、選択そのものを奪い取り勝手にすべてを決めてしまう。
選べるということは贅沢なことだけれど難しい。だから人はお金というものを得るため、いろいろなものを選ぶ自由を得るため働き、いろいろな経験をしていろいろな欲望を探すのだ。お金の量は自由の大きさでもある。安定を望む欲望の大きさでもある。
 それを選べないような状況を作ってしまう支配には2種類あるとニーチェは言う。ひとつは支配力に突き動かされた支配。そしてもうひとつは誰からも支配されたくない為に行う支配だ。
人は利己的にあることを教えよう、人を導こうとするときその支配をうまく利用する。
ニーチェのいう偽教師の教えとは世渡りに役立ちそうな教えであり、何をすれば自分の得になるか、損をしないかといった人づきあいについてであったり、人間関係についてだったりする。しかしそれらはすべて、価値判断であり、人物の見方、ものごとの本質の見方ではない。人生の本質からはほど遠いことを教える。偽の教師には気をつけなくてはならない。
自分に害を与えるものは悪であり、自分に利を運んでくれるものは善であるというように善悪を判断するのは、一般の善悪を判断するのは自分であるという前提をもつエゴイストであり、そういう野蛮な人は世の中に少なくないとニーチェはいう。
本当の財産、本当の贅沢、本当に人が望むものとはずっと自分で自由に選び続けていくことができるその選択そのもの、選択できる状況にあるのではないのだろうか。