12/9/10

View of the World (せかいという視点)

_Seth speaks

海の向こうの地平線を見るとき、または広大に広がる草原の地平線を見るとき、人間は科学的に可能な視力の限界を考えずに空と地面の境目のラインを限界として地平線として納得している。実際に人間の目で見ることのできる距離ははるかに短距離で永遠という規模からは程遠いものである。
歴史的には、世界が平面でそこに空があり、底があると信じていた時代の世界観が存在している。その二次元的構想に基づく世界は海の航行技術の発展と共に覆され、世界は球であると認識されていった。太陽が地球上にある世界を移動していると言う考え方から、地球が太陽の周りを一年をかけて移動しているという理論は宗教的にも論議をかもし出したためによく知られているところである
現実やその時代の常識というものがいかに拡大てしてきているかをここで垣間見ることができるであろう。
同様に科学の発展と共にそこには太陽を中心とする太陽系があり、その太陽系は銀河系の一部として存在していることが今日では教育的理論となっている。その銀河系はおそらく数多くある同じような種のうちのひとつであり、それらが存在する宇宙全体としての像は誰にも確かなものとして捕らえられていない。
私たちが生きている現実という世界は私たち一人ひとりが快適な思考を営めるように自己解釈のもと成り立っているとわかる。
私たちが何を思い創造し作り出すのか、宇宙的価値観においては無に等しいのである。しかし、その無の中においても私たちは確かに存在し、”現実”と呼ぶ世界を目で見て耳で聞き快楽や痛みさえをもを感じたりすることができる。その感覚は意識によってのみ存在を確認することができているかのように。
ひとつの国の住人として生きるのか、多国籍の人間として生きるのか、それとも一まとめに地球人として生きるのか、その生き方ひとつひとつの世界観は一人ひとりの意識による創造にまかされている。
私たちが日々呼ぶところの現実とは実は本当に大きなもの、大きすぎて想像がつかないものの「一部」であり、意識の及ぶ範囲でそれを受け止めて生きていることになる。
人間は死後、霊的な存在になると信じられている。霊能力を持つ者だけがその霊的存在と交信することができるというのも世界的に広く受け止められているアイディアである。
しかし、もしもこの世にいきる者すべてが霊的存在であり、感覚を知り楽しむための肉体を特権的に与えられている存在だとしたらどうであろう。すべての者が霊能力者であり、限らた意識の及ぶ世界において肉体をとおしての感覚、に意識を反映させている存在だとしたら?
何かに触れて見て聞いて楽しみ味わうなどの五感に生きるたのしみがあるというある種の真実を物語ってはいないだろうか。