11/15/10

Doubt (movie)

以前見た映画のひとつにDoubt という映画があった。メリルストリープとフィリップシーモアが出ている、キリスト教、教会を舞台にしたお話。、一時期よくメディアで扱われた教会関係者の児童虐待を、”疑い”とは、”ゴシップ”とはをテーマに、よく描いていた。
一般的に人間って、見たいものを見、聞きたいことを聞き、信じたいように信じるものだと思うの。そのときの気分、感情にも大きく影響されるだろうけど。そこで人の心に心理的要因としてに影響を及ぼすのはステレオタイプとか、教え込まれた既成観念、偏見、ある種の思い込み、誤解といったものが人の思想,行動に影響してくるんだと思う。

私は自分の病気のことを本当に信頼する人にしか告げないし告げてこなかった。どのように伝わるんだろうっていう不安がいつもあるから、私にとってはとっても繊細な問題だったの。実際どのように伝わってきているのかという現状はともかく、病気の事実自体、興味本位に聞く人にとって、偏見の始まりになるって思うから。別にそれが広まったからといって何をしようという気も無いけれど、わたしにとってはまだ気をつかうところではあるかな。
。誰しも平等とか対等、フェアを唱え信じていても、本当にそう行動できるもの?私は何がフェアなのかよくわからないときさえあるし、人は誰も完璧ではないじゃない?。それは大多数が同意するところの意見だと思う。でもその中で、普通でない理由を持つ者が一人でもいるとしたら、大衆の人の心理として、普通でない者に焦点をあててしまうのは自然なことかなと思う、そしてそれがわかってしまった、その瞬間以降のすべての間違い,奇行はその人によってなされたものとみなされがちであろうと思うし、その人が非を認められててしまうでしょ? バイアスってそういうものだと思う。
現実、本当の人の意図はどうであれ、その疑いとかバイアスに打ち克つには、ある意味、一度弱さを持ってしまったら、その人はひとよりよりいっそう強くなければならないし、欠陥を持ってしまったら、よりいっそうの完璧さを求められるということかもしれない。だから助け合いとか分かり合うことが大事なんだろうけどね。

この映画はそんな人が思わず疑いを持ってしまうことの弱さをよく描いていた。正しいことをしようとして、それがゆえに疑いを持ってしまうことの皮肉さがそこにあるのが興味深い。
厳しい戒律、規律を守るメリルストリープ演じるナンの一人はたあいもないやり取りの中にある教会関係者が児童虐待に関わっているのではないかと、疑いをもってしまう。そしていろいろな状況証拠を元にいきついたところは虐待に対する疑いだった。被害者を守ろう、正しいことをしようとする一心で、彼女は組織の中に存在する規律を破ったり、、真実の追究のため、と自分で作り上げた嘘をついてでもその人物をののしり対峙し、真実を聞き出そうとするのだが、結末として、浮かび上がってきたその真実は、誰ひとりその状況にいた者を助けることもなく、疑いを持ったという行為に対する悔念だけが残ったというストーリーである。
その中で引用された協会でのゴシップについての話がとても印象的だった。
何故、ゴシップはいけないことだと教えるのかという賢明な答えがそこにあった。
ある女性がゴシップに身を染めてしまった自己の懺悔に教会に現れた。そして何故いけないことなのでしょうと牧師に問うた。牧師はまずその女に、家に帰り、羽寝枕とはさみをもって屋上へ行き、その枕をずたずたに切り裂くようにとの指示する。そしてここに戻ってくるように。
女は言われたとおり屋上で羽根枕をはさみでずたずたにした。そして彼女が牧師の元へ戻ってくると牧師は何が起こったのか彼女に説明を求めた。その女は羽根がとにかくばらばら四方八方にに飛び散り、近所中に飛び散ってしまいましたと彼女は答える。
次にその女に牧師が言ったことはそれでは今からその一つ一つの枕の羽片をひとつ残らずかき集めて来るように指示するのだが、女はそんなことはできないとうなだれる。そして牧師はゴシップとはそういうものなりと女をさとすのだった。