11/10/10

The name of the Rose (movie)

薔薇の名前という映画を見た。
なぜこの映画を手に取ったのかというと、昔の近代科学史論なる大学の講義の中で講師がパラダイムの転換を説明したときにこの映画の名前が出てきたのを思い出したから。パラダイムとは、科学史上の概念、規範、範例を意味するとWikipediaでは示される。
天動説を基にした理解においては、この世界は中心というものが存在し、私たち人類はそこに存在していた。その世界の天には神が存在し、よって人々は天上から見守られているのだという図を安心感をもって想像させていたのだ。
現代的科学的理解によれば、それは実は眼に見える表象のひとつの表現で実は地球が太陽の周りをめぐっているんだということになる。地動説が当たり前の今の世の中、その変換を考える視点は面白かった。天動説から地動説というものへの思想の転換がどういうものであったのだろうか。、その時代においていかに衝撃であったか、その転換がその当時の人々の心と宗教観にどういう影響を与えたのだろうかか、と宗教的な論議に及んだとき、薔薇の名前という映画が引用されたように思う。古いものの考え方に執着しようとする人の心の怖れとか、変化を恐れるが故の功罪といったテーマもあったのかもしれないがあまりよく覚えてはいない。


薔薇の名前というこの映画の中ではキリスト教における笑いと罪についての宗教的解釈を間接的に批判、論議していたと思う。教義を守ろうとするがゆえに教義、情報を操ってしまう人の怖さ、異端を理解するまで本当の正しい理解を得ることができなかった人の弱さ、そしてそれに気づくまでの過程としての旅、そんなことに気付くこともなく続いていく自己を疑うことを知らない大多数としての大衆の論議の怖さ。
個人的に、宗教というものは人を幸せにするものであってほしいと信じている。私は宗教という型にはまった価値観そのものを恐怖に思ったことがあってもあまり好ましく思ったことはなかった。死んでから誰もが気にするものだと思っていた。宗教というものはとても繊細な分野であるから、あまりひとり勝手なことを言うべきではないのかもしれない。それでも私は一般にいうかみさまを信じるし、ただそれがほかの人のいうかみさまと同じかどうか確信が無いから、God、神ということばはあまり使いたくないかな。。。(私の思うものは説明がつかず、正しく伝わらないと思うから。。)

人は罰をおそれ、その恐怖があるから、よいことをしようとよく生きようと励むのか、ある生き方を強いられることでようやくいい人生というものに気づくことが出来るのか、それとも笑いや快楽を否定することでようやくある良い意味での反発からのみ価値観が見出されよいものが育っていくのか。そういう価値観一般を、教え、教えられるということの本当の意義とその難しさ、恐怖を思った。映画にはそれががうまく描かれていたと思う。それはある意味心に感じるものに従うのか知性に従うのかという問いでもあったと思う。私は心が羅針盤で知性が地図のようなものではないのかなと思う。かといっていい地図を持っていても羅針盤が鈍かったり狂っていては時間の無駄と遠回りばかりかもしれない。。
ニーチェは本能こそ最高の知性であると説いた。そしてどんな事象事物であれ、生に向かうものすべてを良しとした。そのために人は本能的に生きようとし、恋に落ちたりある人を特別に好きになったりするものなのかもしれない?!

本質はどうなのだろう。。と思う反面、そうだったら素敵かなと思った