11/11/10

Tit for Tat--reciprocity

最近学んだ表現のひとつにreciprocityというのがあった。何かをしてもらったりされたらそれなりのお礼や報復を当然とするアイディアだ。いいことも悪いこともバランスの偏りゼロが一番適切であるという考え方だとも言える。借り貸しなしの関係を最善とする考え?
もうすぐ元夫になる彼が自分の言い分を通すためによく使った手だったし、わたしもものごとを穏便に収めるために使っていたと思う。何かをしてもらったら対等のお返しをしたり、何かいやなことをされたらそれなりに?とかね。思ってもけっこうすぐ忘れてしまえるほうでもあるけれど私だって完璧な人間じゃないもの。心のドロドロは私も持ってます。
Tit for Tat にはそれなりの報復や埋め合わせを取引や約束事としてがすべての言動行為の理由付けにするという考え方が根底にある。私は自分がされていやなことは人にしてはいけないときつくいわれて育ったから、ここでいう”埋め合わせ”というアイディア自体、”やり直し”とか 平等さ、ややさしさの判断基準というようにもとれると思ってたたのだけど、解釈は人によって大きく違うらしい。ことばとかその科学って難しい。オンラインで調べてみたら prisonerのdilennma(囚人であることのジレンマ)が同時に引用され説明されていた。

私は離婚の手続きを始めた時点で夫のいう交換条件をのめずに自分で離婚を申請する道をとった。でも交換条件の内容や個人個人の状況によってはさまざまな条件、要求を飲み続けるしかない人もいるのだろうと思う。私のもうすぐ他人になる夫が出した交換条件?離婚のプロセスがスムーズにいくよう協力する代わり、夫婦としての肉体関係がほしいということだった。:(

何気に、私は結婚というもの、そのもののありかたについても考え始めた。今まで好きで好きでたまらなかったのに終わってしまったボーイフレンドたち。遠距離恋愛の恋しさをやっと乗り越えて穏やかな家庭生活、老後を遠視、夢見て結婚した彼との結婚も結局うまくはいかなかった。
最初は互いに思いやることで始まる人間関係も、結婚したり付き合い始めたりすることで相手への束縛、期待、要求も強くなっていく。キリスト教ではそういうときに愛の重要性を説き?、仏教では思いやりを教え説く?のかな。
私はいつも非現実的な見方にかたよりがちで、どうすることがいちばんいいのかとても難しすぎて今の私には結論は出せそうもない。どうすれば目の前の現実的な状況をどれだけ理想的かつ自然な形に保って置くことができるのだろう。Tit for Tat で成り立つ結婚生活を当然のように生きる人もいるのだろうし、それが幸せだと信じ、感じながら生きてる人もいるのだろう。それを肯定も否定も疑問を投げかける気もまったくないけれど、私は結婚とか人間関係のprisonerであるより、心の自由な人でありつづけて、少しでも愛とか思いやりが根底にある生活がいいなと思った。
理想と現実を結ぶのは無償の愛だろうということがなんとなくわかっても、それは自分を失うぐらい誰かを好きでないとむずかしすぎることみたいだ。そんなこともできない今、これからはもうひとりでいなくてはいけないというこをちょっと寂しく思った。
いつか、現実の壁を乗り越えて、お互いの自由を尊重させながらも、人と人としてのつながりとしての絆を強めていける誰か、いつかそれを一緒に育んでいける人にいつか出会えますように。

感情に振り舞わされて何を思い言おうとも私には私なりに彼を好きになり心許した理由があったのだ。今でも私の最高の理解者だったと思っている。向こうが何を言おうともこれから離婚して他人になる夫を私は嫌いにも憎いようにも思わないだろうし、今まで付き合ったボーイフレンドらに対しても感謝以外の何ものもない。それは私の見方であるから、強いて向こうにも私に対して好意的な言動や行為をとは言わない。でも少しでも私を対等に想ってくれていますように。。私にはもうそう願うしかないかな。どんな状況であれ、そう願うのが一番平和的だと思わない?